映画「ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ」はオフ・ブロードウェイにて上演され、その魂の叫びに熱狂的なファンを生み出した伝説的ロックミュージカルの映画化作品です。
旧東ドイツに生まれた少年ハンセンはアメリカへと渡る際にヘドウィグと名前を変え、性転換手術を受けます。
人生が大きく変わるはずでしたが、手術はまさかの失敗。
股間には残された怒りの1インチ(アングリーインチ)が…。
アメリカでロック歌手になったヘドウィグは、男でもあり女でもあり、またそのどちらでもありませんでした。
どこへぶつければよいのかわからない怒りを抱えながら、今日も力の限り歌います。
無くした愛のカケラを探すヘドウィグの叫びに、心が震える情熱的な「本物の」1本です。
そこで今回は映画「ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ」のネタバレあらすじ結末や感想考察と評価など、総合的な情報をお届けします。
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目次
映画「ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ」の作品情報
【公開日】
2002年2月23日(日本)
【上映時間】
95分
【監督】
ジョン・キャメロン・ミッチェル
【製作】
クリスティン・ヴェイコン
ケイティ・ルーメル
パメラ・コフラー
【脚本】
ジョン・キャメロン・ミッチェル
【出演者】
ジョン・キャメロン・ミッチェル(ヘドウィグ)
ミリアム・ショア(イツァーク)
マイケル・ピット(トミー・ノーシス)
スティーヴン・トラスク(スキシプ)
アンドレア・マーティン(フィリス・スタイン)
映画「ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ」のネタバレあらすじ
アメリカでシンガーとしてロックバンドとともに国中をツアーしているヘドウィグ
彼女にとって二番目の夫であるイツァークはバンドメンバーでもあり、マネジャーやメンバーたちはヘドウィグを中心に各地を巡っては歌い、歌っては次へ放蕩バンドの日々でした。
派手な黄色の巻き髪ウィッグ、ラメで顔全体を飾りつけた化粧、サーカスかと思うほど奇抜な衣装…唯一無二の存在感を放つヘドウィグ。
力の限りに歌い上げるものの、ツアーはシケたバーやお客のいない会場ばかり、決して成功を収めているとは言えない状況でした。
ある日のライブも、いつものようにこじんまりとした会場
その日は隣の大きな会場で、大スターとしてのキャリアを駆け上がっている若手シンガー、トミー・ノーシスがライブをしています。
実はヘドウィグはかつてトミーを発掘したその人でした。
愛を与え、自作の曲を与え、トミーをシンガーにするべく導いたヘドウィグ。
ヘドウィグから音楽を与えられたトミーはすぐにその才能が頭角を現し、ファンがつきはじめます。
二人は互いに求め合っていた…はずでした。
お互いへの愛を告白しあった二人、しかしトミーはヘドウィグの股間に、あるはずのない”1インチ”を見つけます。
そしてヘドウィグの曲を盗んで逃げ、トミーはひとりスターダムにのし上がっていきます。
曲を奪われ、自分の過去のせいで恋人トミーに裏切られたことに怒ったヘドウィグ。
トミーの全国ツアーを追いかけ、トミーの大会場のすぐそばで自主ライブを行っては怒りを歌に込めていたのでした。
かつての旧東ドイツ
ヘドウィグはハンセルという名の少年でした。
父はハンセルへの性的いたずらを行い、母は父を家から追い出していました。
ベルリンに壁が築かれることになり、多くのドイツ人が西へと渡ってゆきますが、ハンセルの母は東ドイツを選択しました。
東ドイツでアメリカのラジオを聞き、外国の音楽に憧れながら育ったハンセル少年。
ある時アメリカから来たルーサー軍曹と出会います。
ハンセルを気に入ったルーサーは、彼を一緒にアメリカに連れて帰ると言い出します。
母は自分のパスポートをハンセルに渡し、自分の名前「ヘドウィグ」を息子へと託します。
アメリカに渡るため、ルーサーと結婚するため、ハンセルはヘドウィグになるための性転換手術を受けることに。
しかし手術は失敗、股間には怒りの1インチが残されたのでした。
1インチとともにアメリカに渡ったヘドウィグ
結婚生活は長くは続かず、ルーサー軍曹は別の女を見つけてあっけなくヘドウィグの元を去ってゆきます。
アルバイトでアメリカ生活を続けていたヘドウィグですが、バンドメンバーと出会い、ウィッグをつけ、シンガーへの道へと進んでいくことになります。
長らくトミーのライブ会場のおっかけライブをしてきたバンド、「ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ」。
しかしマネージャーとはトラブルになり、夫のイツァークもヘドウィグへの不満であふれていました。
独断でミュージカル「レント」のオーディションに参加、女性役を勝ち取ったイツァーク。
イツァークには、女性になりたい願望があったのです。
そしてバンドともども、ヘドウィグの元を去ってゆくのでした。
バンドと夫を失ったヘドウィグ
ヘドウィグは身体を売ってその日暮らし、そこに現れたトミー。
かつて盗んだ曲の製作者としてヘドウィグの名前をクレジットするつもりだと告げます。
関係が修復されたかのように思われましたが、トミーとともに交通事故を起こしてしまうヘドウィグ。
大スターのトミーと居たことで世間から注目され、一気に有名人になります。
客なし空っぽのライブから一転、ヘドウィグの歌を聞きに来る客がたくさんでき、バンドメンバーたちも戻ってきます。
テンションまかせに歌い狂ったヘドウィグはウィッグを脱ぎ捨て、服を脱ぎ捨て、隣のトミーのライブ会場へと潜り込みます。
一人のプロとして、自分がかつて彼のために書いた曲を歌い上げているトミー。
ヘドウィグから学ぶことは残されていない、独り立ちして旅立ったシンガーの姿がそこにはありました。
本当の意味でのトミーとの別れを受け入れることになったヘドウィグ。
脱ぎ捨てた女性モノのウィッグは、イツァークへと継承されてゆきます。
アメリカに来てから自分を護る鎧として身に着けてきてウィッグも、化粧も、衣装も脱ぎ捨てた「ハンセルの姿」で街をさまよいゆくヘドウィグ。
シンガーとしての名声よりも、ただ愛が欲しかった…ヘドウィグの腰には、かつて母が語った人間の愛の起源を象徴するタトゥーが彫られていました。
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映画「ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ」感想と考察
なぜこんなにも心が持っていかれる仕上がりなのでしょうか
なぜこんなにも、こんなにもヘドウィグを愛しく感じてしまうのでしょうか。
それはこれがホンモノの映画だからなのです。
強烈で、怒りに満ちていて、浮世離れしているヘドウィグ。
しかし愛を求め、安らぎと救いを求めて模索し苦しむ彼女は、私たち観客の代弁者なのです。
監督から主演、脚本をこなすヘドウィグの生みの親ジョン・キャメロン・ミッチェルは、自身もゲイを公言する芸術家です。
ショークラブで自身が女装した際に誕生したのがヘドウィグでした。
そこから彼女にキャラクターを与え、物語を構想して生まれたのがミュージカル、「ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ」です。
本作は、平たく言ってしまえばLGBT映画。
しかしヘドウィグが性転換手術を受けているという設定はキャラクター設計において大きな特徴を与えてはいるものの、本作で描かれる愛の追求は誰しもが心に願う欲求であり、とても普遍的なテーマです。
自分が何者であるのか、存在意義を問い続けている。
本来持っていたはずの愛の片割れを、誰しも無くしている。
私たち人間はなくした愛の片割れを求めてさ迷う生き物である。
出会いと別れを繰り返しながら、人はどこへ向かって進めばよいのだろう。
愛の根源を叫ぶヘドウィグがホンモノだから、本作は傑作の1本になったのです。
愛の片割れについて、もう少し言及してみましょう
本作「ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ」はロックミュージカルです。
ヘドウィグの心情や主張はロックミュージックによって表現されています。
多くの名曲に溢れていますが、なかでも「オリジン・オブ・ラブ」では物語の真髄をそのままストレートに歌い上げています。
少年ハンセンとして東ドイツに生きていたころ、母からプラトンの「愛の起源」を教えられたヘドウィグ。
愛とは何か、何のためにあるのか。
プラトンの説く「愛」とは、理想を求める情熱を意味します。
理想を求めるとはすなわち、自分に欠けている物を手に入れたいという欲求です。
自分にとっての愛の片割れだと思った人たちとの別れを繰り返し、深く傷ついていくヘドウィグ。
映画の最後には、その愛の片割れを自分自身の中から見出そうと新しい1歩を踏み出していく彼女の姿が見られます。
その彼女の後姿に、わたしたち観客は「愛」を感じてやみません。
映画「ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ」の評価とまとめ
ロックミュージックにのせて、嵐のように駆け抜けていくヘドウィグ。
ミュージカル映画全般を得意としない方も多いかと思いますが、歌手として歌いかけてくるヘドウィグは、いわゆる「いきなり歌いだす系映画」ともまた毛色が違います。
ミュージックビデオを見ているような、ライブ映像を見ているような。
それでいて一連の歌から感情が溢れでてくるので、映画としての満足度が極めて高いです。
疑問を持ちながら今日を生きる人ほど、明日という日に価値を生み出します。
愛の代弁者、ヘドウィグの価値ある生きざまに陶酔してください。
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